静けさと彩りと

*そふぃーの森*

ベートーヴェン イヤー

毎年、クラシック音楽に関わる人の間では
作曲家の生誕○周年、没後○年、
という風に、誰かしらを取り上げその作曲家の作品に触れる機会を作っています。
雑誌は勿論、有名な楽団からアマチュア音楽愛好家までがその流れに自然にのっています。
それがクラシック音楽界の常識で、知らないなんて知識が足りない、そのようにわたし自身は言われたこともあり ちょっと変わった限られた一部の常識だなと思いつつ、いつからか常識にのまれて過ごしています。

今年は あのベートーヴェン生誕250年。
世界中で様々な企画があり、日本では年末に
どれ程の第九演奏会が行われるのだろうかと思っていましたが、誰も想像しなかった世の中となり、かなりの演奏会が中止となりました。

非常に残念ではありますが、わたしは良い機会なのではと思っています。
ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」は大好きな曲ですが、演奏される機会が多いためか「はい、またですね」と、こなしている空気を感じるのです。
毎年の事なので、有名楽団ほど若干気を抜いているのではないかと個人的に思い、会場に行ってまで聴く価値があるだろうか、いや、しかし好きな曲は聴きたい、という葛藤がありました。
完全に個人的な感覚です。
大切に演奏している人もいるでしょう、けれど「恒例のアレ」というものには誰もが無意識に緊張感を欠くことはありえる事だと思います。

演奏予定が詰まったスケジュール、客席が埋まる確信、秋から年末にかけて必ず行う収入源、という常識は消えました。
今後は、音楽解釈も新たになった、演奏出来る喜びと聴くことが出来る喜びが対等な、新鮮で特別な交響曲となる事を願います。


わたし自身は、一昨年前から最後の3曲のピアノソナタに挑み始めました。
そのうちにベートーヴェンイヤーとなり、さまざまな解釈や表現を聴けるだろうと期待していましたが叶いませんでした。

ベートーヴェンの特徴の1つに、誰しもが自分なりのベートーヴェン像を強く持っているという事があるように感じます。そのせいか

「そんなのはベートーヴェンではない」
「あなたの性格はベートーヴェンに向かない」
など、根本的な否定的言葉を頂いてしまいました。


事実だとしても、向き不向きは必要な助言だったのだろうか?
せめて学生の頃、真剣に学んでいた時に言って欲しかった。
なぜ、余生の娯楽というこの時期に言ったのだろう?


ピアノが下手という範疇をこえ、性格まで問われると、さすがに想像以上のダメージ。
自分という人格が崩れたな
これはしばらく立ち直れないだろう
そう思う反面、
人が誰かの性格を完全に理解する事などありえないだろう
という想いも抱きました。

ベートーヴェンの作品は、とても人間らしい感情に満ちているのでわたしは好きなのですが、まさか人間関係を学ぶ事にまで発展するとは。


かなりの期間を重苦しい気持ちで過ごしましたが、そろそろ恩師から離れる時なのだろうと覚悟を決めました。
師弟関係というものは、地域や学校という枠の中で出逢い、そのまま惰性的に継続する場合が少なくありません。
しかし、自発的に師を探すという選択肢もあり、また、自分で曲を創りあげる気迫が必要だと思い知らされました。
作品は楽譜に全てが記されています。楽譜という原点を大切にする事を想い出せた事は、何よりの収穫です。


こんな心の痛む経験を他の人にはして欲しくないですし、講師の立場としての助言方法を考えさせられましたが、心の底から音楽が好きな気持ちがある限り、人は何があってもピアノに向かい続けられるようです。


自分の人生ですから、他者の言動はほどほどに受け流し、時には鈍感に、時には想うがままに進むのも悪くないなと感じます。
音楽に限らず、何事も。

sophie